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『戦争を記憶する-広島・ホロコーストと現在』藤原帰一 [書籍:『』「」付記]

戦争を記憶する―広島・ホロコーストと現在

戦争を記憶する―広島・ホロコーストと現在

  • 作者: 藤原 帰一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2001/02
  • メディア: 新書

 

世間で有名らしいと聞いています、藤原先生が、戦争の記憶について書かれた本です。

今、日本・中国・韓国で歴史認識を巡る紛争がいろんなところで展開されています。であるからこそ、今読んで欲しい一冊です。というか、僕もそんな問題意識から読んでみました。 


本書ではホロコースト記念館、広島の平和記念資料館を出発点として,戦争が記憶されるとき、いかなることが起こるのか、ということを問題提起の端緒としています。ホロコースト、原爆投下はいずれも戦争を忌むべきものとして捉えているけれども、ホロコーストの記憶は、ナチスのように絶対悪に対しては徹底的に戦わねばならず、悪に対する戦いは正戦として許されるということをヨーロッパ人に、原爆の記憶は、戦争、とみに核兵器はいかなる場合も許されない絶対悪であるということを日本人に、それぞれ伝えている。そして例えばユーゴ空爆における欧州での肯定的評価と、日本での否定的評価はこのことを関係していると、藤原先生は論じます。

ここから歴史、記憶、物語の関係、そして戦争はいかなる意味をもつのか考えていきます。

…といってもなかなか記述するのが難しいのでこれは実際に読んで欲しいところですが…恣意的になりますが簡単にまとめると(まぁ、まとめること自体が恣意性を表してますが)こんな感じになるのでしょうか(後に改定予定です)…

まず、アメリカや欧州で戦争がどのように捉えられているかを記される。そこでは日本のように(最近ではそんなこともない風潮がより強くなっていますが)戦争が絶対悪として捉える傾向は弱く(特にアメリカ)、正しい戦争が存在する、ということが第二次世界大戦により認識される。

 次に日本でどのように反戦思想が生まれたのかを論じられる。敗戦直後は、敗戦により国家、そして国家をたたえてきた国民の物語・ナショナリズムの崩壊し、個人の意見として戦争が語られ、国民としての戦争の記憶が語られることはなかった。そして生き残ったことへのためらい、死んでいったものへの罪悪感に苛まれた。戦争は日本国民に強いられた軍部の責任として考えられ、戦争責任が語られることがなかった。非戦闘員としての記憶は多くの人に共有されるものであり、戦後の国民の記憶を形成することになる。同時に「国家の犠牲となった国民」という意識は国家と国民の結合を破壊することになる。

 第五福竜丸事件が起こると原爆反対の思想がて語られるようになる。ヒロシマ・ナガサキはそのシンボルとなっていく。これは日本人の戦争における被害者意識、核戦争への恐怖、対米関係が重層した中、国民的経験として語れていくものだった。

 1970sになると戦争が加害者としての視点で描かれ、反戦の下統合された国民というものにぐらつきが生じる。同時に核戦争の危険が少なくなると、ヒロシマの意義も薄れていく。

 日本の反戦を語った後には戦争を「記憶すること」とをナショナリズムの関係が語られる。そこでは戦争は受難として捉えられる、戦争は国家に強制されるものであり戦場では耐えがたい暴力が存在し、また普通に生活する人に突如不条理を押し付けるものである。その受難の大きさは、戦争に意味を求める、意味のない受難には耐えられない。個別の経験は「国民」の物語として語られるようになる。そうして経験が公共性を持つようになるとそこに社会通念やイデオロギーが形成される。戦争で経験が作られるとき、それは戦争観(反戦・正戦)を形成し、戦争経験が国家と国民を結ぶつけるところにナショナリズムを形成する。戦争は国民に最も共有されやすい記憶なのである。

それぞれが生きる意味と直結している。そこに不毛な記憶の戦いが行われる。

戦争に、正しい記憶は存在しない。また国民の歴史として語られる戦争の記憶には「国民」を軸とする虚構がはらまれるためウソが介在するだろう。

しかし、ウソを暴くだけでは知性の傲慢だけが示されるに過ぎない。

殺された側、殺した側そのような区別が取り払われ、ただ死者を静かに見つめる、そこに虚構が取り払われたに残される戦争の記憶があるのではないか。


この種の問題は繊細な表現が求められるので、ちゃんと述べておきますと、上のものは僕が恣意的にまとめたものです、藤原先生の意見と必ずしも同様であるとはいえません。

こんなことをわざわざしつこく断っているのは、歴史認識問題は考えれば考えるほど難しいということです。この本は問題の難しさを頭の中だけでごちゃごちゃしたものを、さらにややこしくするかもしれませんが、しかし面白い本だと思います。巷には(blogとか)半分以上思考停止した状態で叫んでる人たちがいますが(日中両方でともに)、この本は厳しくもそういうことを許してくれません。

先生は授業でも行ってましたが、問題を簡単にするのではなくいったんこんがらがらせることが大事だと思っているようです。そして、先生は問題に対する処方箋をくれるわけではありません。もともとあっさり解決できるような問題ではありませんが、だからこそ一方に組するのではなく、現状を分析し、何故、いつから、同様にこのような事態になったのか、ということを認識しようとしているのではないかと思います。

藤原先生は授業とかでもそうなのですが、極めて平易な表現を用いることを是としています。これって実際にはなかなか出来ることじゃないんですよね。


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