SSブログ

『吉田茂の自問 敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』 [書籍:『』「」付記]

吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」

吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」

  • 作者: 小倉 和夫
  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 2003/09
  • メディア: 単行本

久しぶりに書評を書きます。

この本は外務省文書「日本外交の過誤」を題材に、戦前の日本が満州事変から、太平洋戦争、そして終戦へといたってしまったのは何故か、日本外交はなぜ失敗したのか、それを振り返りながら現在の日本の外交は同じ過ちを繰り返していないのか、という現在への問い、それぞれを検証していこうとするものです。

「日本外交の過誤」とは、敗戦後、首相となった吉田茂が現実政治を立ち向かう中、ある外務省職員に命じて、記憶あるうちに戦前の日本外交はなぜ間違えたのかということを分析し、後世のためとするために、文書にするよう命じたものです。

文書は冷静に当時の事情を分析し、自己反省を促すものです。筆者はこの文書を現代的視点で再分析を試み、さらに現在にこのときの反省が生かされているかということを検証していきます。

満州事変、国際連盟脱退、軍縮会議脱退、日独防共協定締結、日中戦争、日独伊三国同盟、日ソ中立条約、南方進出、日米交渉、終戦外交と今から見れば目を覆わんばかりの失敗を繰り返しましたが、報告書は今から見るというような短絡的なアプローチはせずに、当時の情勢として何をすべきであったかを論じます。

そして「日本外交の過誤」は戦前外交の失敗を以下のようにまとめます。

まず、全体を通じて情勢判断の誤りを指摘しています。感情におぼれてはならないことを強く戒めます。日米交渉にいたるまでの行為を見て何故日本は米国が譲歩してくれると思ったのか、米国人の本章を理解せずに、また、当時の窮状から希望的観測を立てたに過ぎないのではないか。どうして終戦直前ソ連に調停を依頼して無条件降伏を避けようとしたのか、独ソ戦後のソ連が最早中立でないことは明らかであるはずなのにソ連の仲介に望みを託したために満州に進入され、北方領土を奪われ、挙句の果てに原爆まで落とされてしまったのではないか。等等、情勢分析にそもそもの誤りがあること指摘します。そして、その一因に、民主主義対全体主義、アングロサクソンへの不振、日本への差別感、ドイツへの期待・・・等の、感情的・情緒的な議論が当時の政策決定者の判断に進入していたことを指摘しています。

また、日本外交に根本、理念、今風に言えばヴィジョン、グランドデザインが無かったことも問題と指摘しています。対中政策において既に時代遅れとなりつつあった、明治のころから有していた脱亜入欧のもと、いつまでたってもアジアの諸国を植民地の対象とみなしてきたことが、問題である。人種差別撤廃、大東亜共栄圏などのスローガンを掲げたこともあるが、現実が伴っていない、進出のための口実に過ぎなかった。それゆえ、対中政策において協調・交渉などといっても本気でそのとおり実行しようとするものではなかったし、修辞的な文章を作ったところで、根本が誤っているのだからどうしようもなかったのだと指摘する。

そして一度行動する必要が出てくれば、その行動は敏でなければならない、そのために決断力・実行力が必要であることを指摘する。外務省、そしてもっと言えば、政府、軍部もこれが無いうゆえに情勢に流されるだけになって、最後には戦争に行き着いてしまったのだという。

 

この「日本外交の過誤」の本文の指摘も大変興味深いものですし、こういった視点から外交を捉えることは必要だと感じました。また、作成当時の外務省職員の後世への誠実なメッセージを感じるとき、いささか感動を覚えます。

加えて、筆者がこの文書を題材に現代的なアプローチによって再分析を行っているのは興味深いです。

特に考えさせられるのは、先日決まった自衛隊のイラク派兵再延長です。筆者はイラク問題に触れて、この「日本外交の過誤」の反省が生かされているのかということを問うていました。

シビリアンコントロールの問題に触れ、海外派兵のときに、現地にいる舞台に対してはコントロールが及びにくいので、あまり考えられてきていませんが考えるべきでしょう。特に、これから憲法を改正し海外派兵を増やすのであれば。米軍がイラク・アフガン、アブグレイブ・グアンタナモで行っていることを想起すればこれが日本の自衛隊でも行われないともいえないでしょう。

私自身イラク派兵に必ずしも反対するわけではないありませんが、それでは今の政府に十分な情勢分析、そして、根本があるのかははっきり言って不明であると思います。日米同盟の存在ゆえにイラクについていっているだけではないのか?と考えます。現在世界最大の軍事国家のアメリカを支えるのは当然であるといった類の議論は、一見現実的に見えるけれども、条約の存在前提にした単なる形式主義ではないのか、ということを問い直す必要があるでしょう。日本はここで何をしたいのか、米国とともに世界の安全保障を支えるのか、それが正しいかは別として、それもひとつの選択であると思います。しかし先の問いは問われるべきだし、そもそも国際社会でアピールできているのか、そしてこうした方針の大転換には国民の支持は不可欠のはずなのに、国内において政府の説明はきわめて不透明、いつの間にか議論の無いまま、事実状態が継続されていってるのではないでしょうか。

また、日本外交全体においてもはたして根本理念を有しているかを考えるべきであるとも主張されます。日本は戦後、民主主義という理念を手に入れ、いろいろいう向きもありますが、それは日本人のものになったと思います。そして先進国になりました。ではそのごどうすするのでしょう。先進国としての責任という言葉に縛られ、それにふさわしい行動をとることにあくせくしているだけではないのか。日本外交には対米協調以外にも、アジア重視ということなどもありますが、お題目以上に何をしてきたのか、自決権、植民地時代の後遺症の回復、貧困等、こうした問題を本当に気概を持ってとりくんでいこうとする、意思が本当にあるのか、本書は現代において日本の「過誤」はそのようなところから生じるかもしれないという教訓を残しています。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。