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日米同盟、国連、東アジア [国際法・国際関係]

あんまりニュースということではないですが、時事ネタということで…

特に日米同盟を中心に、という感じなのかな。相変わらず趣旨不明の気の赴くままに、という感じの文章です。


我が国の対外政策において重要なものとなるのは3つある。

・日米同盟

・国連(国際協調主義)

・東アジア(ASEAAN+朝鮮・中国としておく)

 

冷戦時代において既にこの3つの要素は我が国にとっての重要なものとなるであろうことは既に認められていた。おそらく現在においても変わらないのだろう。

冷戦のときには、このうち日米同盟が最も重要であったのは論を待たないであろう。我が国周辺は冷戦の緊張をもたらす要因が多く存在していた。

東アジアについては戦後の賠償という形で重要な意味を持っていた。

国連は機能せずに、これは名目だけのものとなっていたし、これは当時の国際関係に照らしても当然であった。

 

冷戦はソ連が崩壊すると共に終了した。このことはどのような変化を我が国との関係においてもたらしたのか?

国際関係が大きく変化した。世界的に見れば少なくとも主要国の間の戦争の危険は殆ど無くなったと言っていい状況が生まれたように思う。本来的なものとは異なるものかもしれないが、国連、国際協調、ということが冷戦前に比べて意味のあるもののように考えられるようになったし、事実そのようなものになったと思う。

従って我が国の国連中心、国際協調主義もその変化に合わせて具体的に考えられるべきものとなった。これまでのように理想としての国連ではない、お題目のようなものでもなくなった。我が国においても何か対応を迫られるようになった。冷戦終了直前からPKO活動における活動が検討されるようになった。我が国の国際的な責任が求められるようになった。

冷戦終了は日米同盟にも影響を与えるようになった。ソ連がいなくなったことにより、米国は日本に対してその国力に応じた行動を求めるようになった。米国の追っていた国際的責任について日本にも協力を求めるようになった。

平和維持活動、平和構築、大量破壊兵器不拡散・・・

国連中心、国際協調と両立する範囲において日米同盟が変化するようになった。冷戦時代は事実上ただ存在すればよいだけ、であった日米同盟は、冷戦後の米国からの「安保ただ乗り論」、目的の再定義等のために、具体的に整備されていった。

米国と共に国際政治に対して責任を負う、

政府の中には日米同盟を米英同盟程に緊密なものにしたい、と考える者もいたかも知れない。

しかし英国ような「特別な関係」を築くには日本には問題があった。

憲法9条である。我が国は敗戦国であり、国民の中には日本が武力行使輪行うことに対して極めて強い抵抗が存在していた。法的にも日本は憲法の制約上集団的自衛権は行使しない、ということになっており、国際的に日本が果たせる役割は限定されざるを得なかった。

PKO活動についてですら、日本は原則派兵、ということができるわけではなかった。仮に派兵するとしてもその数は諸国と比べて存在感を示せるものではなかった。

近隣諸国の関係の問題であった。東南アジアを省くにしても、北東アジアには冷戦の残滓が色濃く残されていた。英国と異なり我が国の周辺諸国は戦争を引き起こさない保障が存在している国ではなかったし、これらの国との信頼醸成は成立していなかった。

国内では馬鹿げたことと思われるかもしれないが、日本が自衛隊をどのように活用するかについては周辺国の疑惑を呼びかねなかった。

つまり、日本を取り巻くのは十分に信頼醸成もなされず、民主化されたとは十分には言えず、戦力において均衡してない、かつて日本から受けた侵略を忘れることのできていない、核兵器を持った国々であった。

日米同盟は、憲法9条と相俟って北東アジアの緊張関係を暴発に導かないための「ビンのふた」であった。

こうなると一種矛盾とも言える状態が生じるのかもしれない。冷戦までは日米同盟、国際協調、東アジアにおける日本の政策は大きな矛盾を生じさせることもなく並べることができたが、3つの要因について両立させるのが益々難しくなりつつあるのかもしれない

冷戦後米国は日本により多くの役割を担うことを期待するようになった。これは財政的なものだけではない、自衛隊の海外派兵についてである、周辺事態の安全保障についてである。日米同盟を維持・強化するにはこれらの要求に日本は応える必要があった。

しかしこれは自衛隊が何をするか、何ができるか、を周辺国に明らかにすることになるのだが、周辺国はこうした日本の政策が再び戦争遂行能力を保持しようとする動きに見えた。すくなくともその兆しが現れつつあるように思われた。

この頃既に日本の軍事予算は米国を除けば世界最大規模になっていた。

国連が機能するようになる(少なくとも冷戦時と比べて)と、米国と国連の考える国際的な平和に対する考えが異なっていることが明確になってきた。

国連は最終的な「正しさ」を決議などの手続きに求めた、しかし、正しさを実行するための力も無く、手続きに内在する問題ゆえに迅速に対応することもできなかった。

一方、米国は「正しさ」を自らの、時によっては自ら特有の価値観に求めた。米国には自らの正しさを実行するための力があった。自らこそが世界の安定のための貢献をしているという自負も存在していた。冷戦を民主主義の勝利とし、建国以来の民主主義の拡大をさらに希求するようになった。時として(特にブッシュ政権)、民主主義のための戦争も辞さないこともあった(同時に他の理由もあるのだろうが)。ベトナム戦争以来の自身も取戻すようになっていた。

 イラク戦争では米国と国連は対立した。戦争直前、ブッシュ大統領は「国連決議にかける必要など無い」とまで言い切った。

現在イラク戦争の現状に鑑み、米国は国連の有用性を認めざるを得ないようになったのではないかと思う。しかし、これもイラクが片付き、時間がたち、自信を強めたときにどうなるか分からない。国連改革の結果も米国と国連の関係に大きく影響するだろう。

 

では我が国は今後どのような対外政策を採るべき、ということになるのだろうか?

日米同盟を捨てる選択はありえない、と思う。そのためには我が国の周辺にはあまりに不安定要因が多すぎる。我が国の安全保障政策を考え、同盟国を考えたとき、これは米国抜きにはありえない。また東アジアに米国のプレゼンスが存在することの意義を無視するべきではない。

東アジア、今後の我が国の繁栄のためにはこの巨大な市場をさらに緊密にする必要があるだろう。そのためには国家間の経済協定の締結は不可欠だ。日本と共に歩むことのできる東アジアの創設は我が国の安全保障にも資する。これには何十年も月日を必要とするであろうが…

国連、国際協調の中心的役割を果たす国連を無視することはできない。我が国は世界で最も国際環境の安定も必要とする国の一つである。国連は国際社会において最も権威を有する国際機関であり、これに代わるものを新たに作り出すことはできそうに無い。

 

つまり、我が国においては結局のこの3つの要素を捨てることはできず、全てを並び立てることが必要である。しかしそれは冷戦中のときは違うバランスのとり方が求められる。

問題は米国に何処までコミットするか、ということであると思う。

米国の単独行動をどうみるか。フランスは米国と対峙する第二極を作ることを考えEUをそのために用いようとしている。英国は米国と「特別な関係」を築き、米国への影響力を強めようとしている。それぞれメリット・デメリットがある。

北朝鮮など周辺において安全保障上の問題を抱える我が国において日米同盟の信頼を傷付ける行為をとることはできない。フランスのように価値を共有し、共に歩める国が近くにいるわけではない。

すると我が国は米英の「特別な関係」を目指すことになる。

ただし、全く同じものとはならないだろう、目指すべき方向としてはそれでよいとしても、どの程度「特別な関係」を築くべきか?別の問題として米国は何処まで求めるのか?、ということがある。

米国からすれば日本に英国並みの行動をしてもらうのが理想と考えているかもしれない。イラク戦争のような自体においては共に攻撃に参加してくれるのが理想、そう考えても不思議ではないだろう。

逆にこうした米国の要求に応えない、ということであれば同盟の信頼性が失われるかもしれない。もしそこまでしないのであれば米国と説得する理由が必要であろう。現実には憲法9条が役立っていると思う。

個人的意見になるが、そもそも米国のイラク戦争は妥当ではないと考えている。外国からの力によって、しかも国連の授権も無く軍事介入しても当該国における人々の反発は必至であるからである。大量破壊兵器の存在を根拠に戦争を仕掛けたが、無かった。権威ある機関によって許可が出たことを根拠とせず、事実についての疑惑に基づいてこれを根拠とすれば、当然こういうこともありえる。

だが、日本が米国を支持するかどうかは別の問題であるように思う。反対して日米同盟の信頼を損なっても、国際社会としてはある程度意味はあっても、結局米国は攻撃を行ったであろうし、逆に日本にとっての国益は極めて大きい。国際社会もまた力の政治を無視できるほど強くは無く、我が国においても現実的な判断が必要であった。加えて、サダム・フセインは独裁者であり、倒されてはいけない人物ではなかった。

従って日本がイラク戦争を支持したのは妥当な判断だったのではないだろうか。小泉さんの支持は下がらなかったが、これは米国の大量破壊兵器についての言い分を信じたということもあるが、日本としてどうするべきだったかを国民が判断していたからだと考える。

といいつつも、米国についてイラク攻撃に参加するべきであったとは考えていない。我が国が将来的に国際社会に対して責任を英米と共に行動することを、反対するつもりは無いが、現時点においてこうした議論が分かれるような戦争で武力の行使を日本はするべきではない。

戦後の日本の歴史は国際社会での信頼を回復するための道のりであったとも言える。だが、未だ周辺国との信頼は築けていない(誰のせいかはここでは問題としない)。そもそも憲法がある。

日本が武力の行使を解禁するのは。かりにこれを行うにしても段階を経て行うべきであろう。少なくとも、一番初めの武力行使は、ほとんど誰が見ても異論の無い戦争、大義名分がはっきりしており、国連安保理が明確に授権した場合、であるべきだと考える。

少しずつ周りからも、世界からも、武力を行使しても信頼されるような、過剰に反応されるようのこと無いような方法で武力を行使することは解禁していくべきだろう。

現在は米国の軍事活動は、よほどひどいものでない限り(想定できないことだが)、支持する。そして直接軍事活動には参加せず、間接的な支援に留める(憲法9条はそれまでの米国の更なる要求を断るための防波堤となりえるだろう)。

そしてその間に、米国の信頼を得られたことに満足せず、周辺国との信頼醸成を日米安保を担保しながらはかっていく、東アジアでの国家の行動に一定の枠はめる枠組みの形成をはかる、ということが必要になるだろう(東アジアでどういう枠組みを作るのかは今後の我が国外交で最大の課題となるであろう)。

国際社会との関係においても、平和維持活動のための自衛隊派遣人数増加、平和構築活動の強化、をはかって行くべきだろう(これは常任理事国問題においても重要であると考える)。

なかなか全て問題を解決するための処方箋は無い。少しずつ事実と信頼を積み重ねること長い時間と調整のための労力は必要とされるだろうが、日本の国益の実現のためにはこうしたものしかないのかもしれない。

 

もっとも、東アジアで安定が達成され、価値の共通できる国ばかりになったならば日本は米国の単独行動までは支持しないかもしれない。日本の国民感情としては手続きとしての、権威としての国連の授権を重視するかもしれない。その頃の我が国の国論がどうなっているかはわからないが。

ただ、我が国にとって残念(?)なことはそういう状況は暫くなさそうである、ということである。


これでも取り止めがないので、これ以上他の要素を入れるのは止めます。とりあえずこれで一つの完成物、ということで。


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